Mystery Circle

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《 センセイ 》

《 センセイ 》

 著者:田川ミメイ

小学校5年の5月。

わたしは転校生だった。

ひんやりと薄暗い昇降口で上履きをはき、母の背中に隠れるようにして、

タイル張りの床を俯きながら歩いていた。

紺色のジャンパースカートに薄水色のブラウスを着たやせっぽちの女の子は、

青白い顔をしていたに違いない。

職員室に行くと、担任のセンセイが待っていた。

卒業するまでの2年間、担任することになります。よろしくお願いします。

よく通る声で、センセイは、母にではなくわたしに言った。

背が低くて、おなかの出っ張ったオトコのセンセイだった。

顔が丸く、光ったおでこも丸くて、おなかも丸い。

教科書を抱えた腕も指も、太くて短くて丸かった。

ころんとしたクマみたいなセンセイだった。

すでに予鈴がなったあとで、生徒達は皆教室に入っていた。

締め切ったドアの向こうから、微かなざわめきが漏れてくる。

がらんとした廊下はどこまでもまっすぐと続いているようで、

わたしは、どこへ連れて行かれるのかも分からずに、

前を行くセンセイのあとについて、ただ足を運んでいた。

センセイの背中は、やはり丸く、ごつごつと固そうでもあり、

ふかふかと柔らかそうでもあった。

廊下に並ぶ窓の外には光が溢れていた。

青々と茂った樹々が風に揺れるたび、

真新しい上履きに光の欠片が模様を描いた。

5年1組は、驚くほど仲の良いクラスだった。

運動会でも、林間学校でも、学芸会でも、

ことあるごとに、クラス全員が一丸となって真剣に取り組むのだった。

大きなイベントでも、クラス内の小さな問題でも、

何かを決定しなければいけないとき、

センセイは、いつも目を細めて悪戯の相談でもするかのように、

生徒達に向かって何かを差し出した。

それは、いつも小石のようなものだった。

輝く宝石を持ってきて、「これはダイアモンドです」と教えるのではなく、

湿った泥ごと掘り出してきた正体不明の小石を掲げ、

「こんなのがあるんだけど」と皆に見せるのだった。

生徒達は、それについて、ああだこうだと思いめぐらせ意見を言い合い、

手にとって泥をはらい、水で洗い、丁寧に磨きあげていく。

そのあいだ中、センセイは教室の窓際に立って、にこにこと笑いながら、

その様子を眺めているだけだった。

生徒達が時に暴走し、羽目をはずしかけても、センセイは笑っていた。

一緒になって笑い転げていた。

センセイは、毎日お昼になると、放送室にいた。

生徒達が給食を食べているあいだ、

放送室のマイクに向かって、物語を朗読していた。

それはチビクロサンボだったり、十五少年漂流記だったりした。

1年生から6年生までの全員が理解できて楽しめるようなものを、

選んでいたのだと思う。

実際、それはとても楽しかった。

登場人物ごとに声色を変え、しゃべり方を変え、

時には底抜けに明るいお調子者になり、

時にはすごみをきかせた海賊の親分になってみせるのだった。

スピーカーから流れてくるコトバを聞きながら、

わたし達は頭の中に浮かぶ映像を見ていた。

6年になったとき、わたしは放送部に入った。

当番の日は、マイクの前で小さな鉄琴を叩き、

「これからお昼の放送をはじめます」とまじめくさった挨拶をし、

その日センセイが語るオハナシの紹介をした。

放送室からはひとけのない校庭が見渡せた。

風とともに光が走っていく校庭を眺めながら、

本を捲るセンセイのすぐ横で、その物語に聞き入っていた。

センセイは作文が好きだった。

わたし達のクラスにだけ、教科書を開かない「国語」の時間があった。

センセイが考えてきた「課題」について、

皆で思いつくままに取り留めのない雑談をし、

時にはセンセイの体験したエピソードを聞いて、

それから一斉に原稿用紙に向かった。

さりさりと鉛筆のこすれる音と、紙をめくる音。

耳に触れる音はそれだけだった。

時折、校庭から体育の授業の笛が、夢の中の音のように遠く聞こえてきた。

その時間内に書き上げなければならないわけではなかったので、

書くことが思いつかず、ぽかんと窓の外を見ていても、センセイは何も言わなかった。

あのしんとした時間のあいだ、センセイは何をしていたのだろう。

教室にいたことは確かだが、そこで何をしていたのかを想い出すことはできない。

俯いて鉛筆を握っている皆の姿と、

そこだけが別世界のように白く輝いていた窓の外の景色だけが、

音のない映画の一場面のように浮かんでくるだけだ。

センセイは褒め上手だった。

それぞれの生徒に対して、何かひとつのことを徹底的に褒めたたえた。

わたしの場合は、それが、作文だった。

他に褒めるものがなかったのかもしれない。

それでも、わたしは、もっと褒められたくて、せっせと原稿用紙の升目を埋めた。

あの2年間で、わたしは書くことの楽しさを知った。

センセイに出会わなかったら、

何かを書きたい、なんて思うこともなかったかもしれない。

コトバというものの魔力や、魅力に、引き寄せられることもなかっただろう。

本を出版したとき、真っ先に想った。

センセイが、きっと喜んでくれる。

目を細めて、にこにこ笑いながら、うんと褒めてくれるにちがいない。

だが、センセイはもういなかった。

わたし達が小学校を卒業した2年後に、センセイは死んだ。

酔っぱらったまま自転車に乗って、川に落ちたのだという。

葬儀は子ども達であふれかえっていた。

何代もの卒業生たちがあちこちに輪を作り、口々に言い合っていた。

センセイらしいよね。

きっとよほど嬉しいことでもあったんだろうな。

みんなが、笑いながら、泣いていた。

《 センセイ 了 》

【 あとがき 】

久しぶりに読み返して、なんで「先生」を「センセイ」と書いたんだろうと思ったりしたのだけど、でもこれを書いたのは、川上弘美の「センセイの鞄」よりもずっと前で、つまりこういう表記がはやり始めた頃だったのかも。まだネットに慣れず、「横書き」で文章を書くことに抵抗があって。横書きにすると漢字を多用した文章は読みにくく、縦書きなら漢字で強調できるところを、あえてカタカナで表記する。そういう事だったのだと思います。今はもうすっかり横書きにも慣れちゃったけど。でもやっぱり文章を味わうには「縦書き」だよね、と、それだけは変わりません。(って作品解説じゃなくなってるけど)

今回蔵出しして、このセンセイのこと好きだったなぁと改めて思って、自分の人生において初めて「影響」というものを与えてくれた方だった。本当なら今こそもう一度会いたい人。でも会えないから、忘れないよう、白日の下で虫干しを。(俺は虫か、とセンセイが笑ってる)

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